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伊藤大輔牧師
伊藤牧師のプロフィール 1963年東京生まれ 1987年東京神学大学修士課程修了 南国教会、武蔵野横須賀伝道所、八王子めじろ台伝道所、 北千住教会、銀座教会、青山学院高等部、横須賀学院等を経て2015年4月より本多記念教会8代目牧師として着任。 説教とお祈り (おことわり;以下の録音は本多記念教会の聖日礼拝での伊藤牧師の説教を教会員が録音録画したものです。録音状態が悪いところがあってもお見逃しください。なお、ここへの公開は牧師の了解を得てあります。) 青山学院大学での「キリスト教概論II」の講義録はここをクリック 2024年の説教録はここをクリック 2023年の説教録はここをクリック 2022年の説教録はここをクリック 2021年の説教録はここをクリック 2020年の説教録はここをクリック 2019年の説教録はここをクリック 2018年の説教録はここをクリック 2017年の説教録はここをクリック 2016年の説教録はここをクリック 2015年の説教録はここをクリック 2025年11月23日 聖霊降臨節題25主日礼拝 2025年11月16日 聖霊降臨節題24主日礼拝 2025年11月9日 聖霊降臨節題23主日礼拝 2025年11月2日 聖霊降臨節題22主日礼拝 召天者記念礼拝・聖徒の日 2025年10月26日 聖霊降臨節題21主日礼拝 2025年10月19日 聖霊降臨節題20主日礼拝 2025年10月5日 聖霊降臨節題18主日礼拝 聖書; 使徒言行録18章18~23節 世界の本当。誰でも見つけられる。本当の私に私がなれば、誰も見ていない、本当を見ることができる。本当を見つけ、本当を語る世界は本当に近づいていく。「恐れるな、黙っているな、語り続けよ、私はあなたと共にいる」世界は本当の私が作っていく。 2025年9月28日 聖霊降臨節題17主日礼拝 聖書; 使徒言行録18章1〜17節 「恐れるな、黙っているな、この町には私の民が大勢いる」パウロはこの言葉を信じた。信じて行った。私の信じること。どこかにつながっている。何かにつながっている。未来に必ずつながっている。 2025年9月21日 聖霊降臨節題16主日礼拝 聖書; 使徒言行録17章16〜34節 世界は良い。定まった地平、奥底にあるテーブルの話ではない。進み続けるものだけが味わえる世界。世界は良い。もっともっと良い。まだまだ良い。その良いの中を進みゆくもの。信じるもの。その者が真の平和を造り出す。 2025年9月14日 聖霊降臨節題15主日礼拝 聖書; 使徒言行録17章10-15節 彼らは彼ら。私は私。自分と彼らの区別ができている。パウロは支配されず、なすべきことを行う。穏やかに自らの使命を果たす。使徒パウロ。パウロが使徒として語り継がれる理由がここにもある。 2025年9月7日 聖霊降臨節題14主日礼拝 聖書; 使徒言行録17章1-9節 誰かが私の代わりをしてくれる。私も誰かの代わりをする。そうして世界は回っていく。だが、ただ誰かの代わりをすれば世界を本当に回すことに、未来を作り出すことになるのか。弱い国が強い国に支配されている。弱い国の代わりに戦おう。 2025年8月31日 聖霊降臨節題13主日礼拝 聖書; 使徒言行録16章35ー40節 世界を造った神は、この世界を「良い」と言った。世界は良い。それは変わらない。ならばなぜ、何かにしがみつく必要があるのか。この物語は読者に問いかけている。世界には変わらないものがある。それを求めているか? 2025年8月24日 聖霊降臨節題12主日礼拝 聖書; 使徒言行録16章25ー34節 本当とは何か。真実とは何かを求めるところ。ないと思っているものはある。私は全てを持っている。変わらないものがこの私に備わっている。私自身。それは変わらず永遠へとつながっている。世界はどういうところか。変わらぬ私を知るところ。そこに世界の真実がある。 2025年8月17日 聖霊降臨節題11主日礼拝 聖書; 使徒言行録16章16-24節 世界は良い。それは変わらない。変わらないものがある。それを見失ってしまうのは私たちが「変わらないもの」から遠ざかって行くから。自分には足りないものがある。知識の木の実が必要。自分以外のものを貼り付けると変わらない世界から遠ざかっていく。信じる。 2025年8月10日 聖霊降臨節題10主日礼拝 聖書; 使徒言行録16章11-15節 異なる世界とパウロたちは直面する。その伝道は自らを知る、自らを思い出す旅でもある。この世界は本当に異なるものの集合体なのか。それとも同じものを持っていながらそれを忘却してしまっている群なのか。自らに問えば自ずと世界の姿を見ることができる。 2025年8月3日 聖霊降臨節題9主日礼拝 聖書; 使徒言行録16章6ー10節 私が見たもの。それを信じる。夢を信じる。世界を未来につなげていく。平和を作っていく。夢。この世界に掛け替えのないもの。私も同じ。あなたも同じ。世界に一つだけのもの。一つだけのものが世界に命を吹き込んでいく。 2025年7月27日 聖霊降臨節題8主日礼拝 聖書; 使徒言行録16章1-5節 エルサレム会議で決まったこと。矛盾、整合性、前例。そんなものはどうでもいい。自分で決めろ。教会はこの会議の決定から生まれた。私たちの教会は会議の決定を継承しているか。 2025年7月20日 聖霊降臨節題7日礼拝 聖書; 使徒言行録15章36ー41節 手紙の中でパウロは「どちらでもいい」を繰り返す。どちらから行っても行くべきところにはちゃんと行ける。この道しかない、私しかない、私が正しい。そんなことはどうでもいい。どちらでもいい。どちらも正しい。どちらから行っても世界ちゃんとしたところに辿り着ける。 2025年7月13日 聖霊降臨節題6主日礼拝 聖書; 使徒言行録15章22~35節 世界は良いと信じているか。規則にすがれば問わない、考えない世界が始まる。だが、教会のなした決断は「問う」こと。考えること。信じること。世界は良い。この光の見えない現実の前で問い、信じるものが未来を造っていく。教会は2000年、そのように歩んできた。 2025年7月6日 聖霊降臨節題5主日礼拝 聖書; 使徒言行録15章1~21節 神がこの世界を造っている。規則を作る。規則を守る。大切なこと。大切に思うが故、忘れてしまっていくものがある。神を忘れていく。自分、人ばかりしか見えなくなる。信じる。任せる。委ねる。そこから始まらないと世界は形になっていかない。 2025年6月29日 聖霊降臨節題4主日礼拝 聖書; 使徒言行録14章21~28節 幸せとは何か。怯えないで生きる。依存、支配の中に身をゆだねない。自由。幸せとは何か。遠くまで行ける。どこまでも行ける。自由。聖書は幸せについて語っている。 2025年6月22日 聖霊降臨節題3主日礼拝 聖書; 使徒言行録14章8〜20節 神を信じる。そこには偶像など入り込む隙間はない。だがこの世界は偶像で溢れかえっている。数字、常識、規則、予測、計画。これがあればあなたの足りないもの、不安を補えると。現代にある「善悪の知識の木の実」「偶像」。我らは今週、それらとどう向き合うのか。 2025年6月15日 聖霊降臨節第二主日礼拝 聖書; 使徒言行録 14章1〜7節 自分には足りないものがある、という歌が今や世界中で大合唱を始めようとしている。どうすれば平和を作ることができるのか。自分を信じること。神の約束を信じること。足りないものは何もない。心、整え未来を築く。 2025年6月8日 聖霊降臨節第一主日礼拝 聖書; 使徒言行録 2章1~13節 未来には私の想定を超えたものがある。過去には否定をしなければならないものは何もない。「良い」とは何か。過去、未来。すべてが良い。ペンテコステ。聖霊降臨日。私たちが自らの世界をもう一度、確認をする日。世界は「良い」を信じる日。 2025年6月1日 復活節 第7主日礼拝 聖書; 使徒言行録13章44~52節 約束。約束を交わした者同士が覚えているから成り立つもの。神も私たちと約束をしている。ただ、私たちはそれを覚えていない。記憶の中にあるのではない。心の奥底に、体の芯に埋め込まれているもの。神が私たちになした約束。 2025年5月25日 復活節 第6主日礼拝 聖書; 使徒言行録13章1~12節 パウロたちの伝道旅行が始まる。キプロス島で出会った魔術師バルイエス。この者が懇意にしていた地方総督がパウロたちに興味を待ち始めると、慌てだす。なんとか自分の方へと振り返るように画策をする。それがパウロの知るところとなり、激しく叱責される。信仰とは何か。 2025年5月18日 復活節 第5主日礼拝 聖書; 使徒言行録12章20~25節 分かるは終わっている。分からないは未来につながっている。神は分からない。それに不安を覚える必要はない。人の脳に収まらないだけ。人の思いを超え、予定、計画を超え、もっと面白いものもっと楽しいものそれが私たちを取り囲んでいる。分からないを大切にする。 2025年5月11日 復活節 第4主日礼拝 聖書; 使徒言行録12章1~19節 ペテロは牢に入れられるが、天使の助けによって、そこを出る。扉の外で声を上げる。だが誰も信じない。イエスの復活と同じ構造。表面の登場人物は異なるが構造は同じ。同じ構造がなぜ繰り返されるのか。 2025年5月4日 復活節 第3主日礼拝 聖書; ルカによる福音書24章36~53節 「悔い改め」が与えられる。悔い改めとは何か。反省と何が違うのか。反省。自分でないもの。他者が基準になって生み出されるもの。悔い改め。他者と関係なく、自らの内に生まれるもの。それはどういうことか。アダムとエバの物語。 2025年4月27日 復活節 第2主日礼拝 聖書; ルカによる福音書24章21~35節 神を知るとは、信じるとはどういうことか。エルサレムからエマオに向かう二人の弟子。そこにイエスが同行する。彼らはイエスだとは分からない。イエスとの夕食の時。彼らはそれがイエスだと気がつく。と、同時にイエスの姿が見えなくなる。 2025年4月20日 イースター礼拝 聖書; ルカによる福音書24章1~12節 復活とは何か。世界の基底は「変わらない」。動くから気にもなる。そこに「在る」がはっきりする。初めからある。神が世界を造った。それは極めて良かった。それは私たちも同じ。それが本当の私。その「私」を探し、「私」に出会う。必ず出会える。 2025年4月13日 受難節第6主日礼拝 聖書; ルカによる福音書23章44~56節 法廷を司ったピラトでさえ、この裁判の違法性には気が付いていた。それでもそれを止められない。正義は、秩序はどこにあるのか。無法、感情、本来社会性のないものが社会の流れを決めていく。世界はどこに向かっているのか。 2025年4月6日 受難節第5主日礼拝 聖書; ルカによる福音書23章26~43節 「神の子なら、自分を救え」イエスに向かって人々は侮辱する。これと同じ言葉をイエスは公の生涯の始まりにも直面した。荒れ野での40日間の断食。自分のために自分の力を使え。イエスは生涯、この言葉、誘惑と直面していたのではないか。 2025年3月30日 受難節第4主日礼拝 聖書; ルカによる福音書23章13~25節 イエスは何を信じていたのか。信じるとは何か。神の子イエス。イエスには信仰は存在しないとの考えもある。肉体を持っているイエス。私たちが持っているもの、それはすべて持っているとの前提で考えてみたい。 2025年3月23日 受難節第3主日礼拝 聖書; ルカによる福音書22章47~53節 イエスを捕えるために群衆がやって来る。祭司長、律法学者、時の権力者たちもその中にいる。その先頭に立っているのがイスカリオテのユダ。ユダがイエスに接吻をしようと近づいてくる。「接吻で裏切るのか」とイエスは問う。ユダとは何者か。 2025年3月16日 受難節第2主日礼拝 聖書; ルカによる福音書22章39~46節 十字架にかかる前の夜。最後の夜。イエスは祈る。盃を取り除いてほしい。しかし、神の御心がなりますように、と。その時、弟子たちに告げる。誘惑におちいるなと。イエスの生涯。最初と最後、「誘惑」と直面している。 2025年3月9日 公難節 第1主日礼拝 聖書; ルカによる福音書20章20~26節 受難節。神と人の乖離。それが何か。どうして起こったのか。人はなぜ答えを欲しがるのか。イエスに答えを要求する。ローマ皇帝に税金を納めることは律法にかなっているのか。ユダヤの律法によれば、異邦人と関わること。皇帝に納税することは律法違反。 2025年3月2日 公現後 第8主日礼拝 聖書; 使徒言行録11章19~30節 世界はどのようにできているのか。迫害に遭う。自分の信じるもの。自分が正しいと思うもの。それは自分だけに分かる言葉。それ故に人には分からない。 2025年2月23日 公現後 第7主日礼拝 聖書; 使徒言行録 11章1~18節 本当の私と本当の私が向き合う。使徒言行録はその時、異なるものの間に、敵同士の間に関係が生まれたと語る。平和はどのように実現されるのか。「本当の私」と「本当の私」が出会う時に生まれる。この物語は本当なのか?「本当の私」はこの物語をどう読むのか? 2025年2月16日 公現後 第6主日礼拝 聖書; 使徒言行録10章44~48節 ペテロ。境界線を持っていた。ユダヤ人と異邦人。世界を分断する境界線を持っていた。それが世界の整理の仕方、世界のあり方だと思っていた。そのペテロを神が導く。あちら側に行け、と。敵のところに行け、と。境界線を跨いでみろ、と。 2025年2月9日 公現後 第5主日礼拝 聖書; 使徒言行録10章34~43節 異邦人と関係を結べ。神の命令とは言え、ペテロはこの言葉に戸惑う。自分たちユダヤ人と異邦人は違うと思っていたから。違うものが関係を結んでいいのか。結べるのか。 2025年2月2日 公現後 第4主日礼拝 聖書; 使徒言行録10章9~16節 ペテロは奇妙な夢を見る。汚れた動物。夢の中で神は「それらを食べろ」と言う。ペテロは即答する。「清くないものは食べたことはない」。神は語りかける。「神が清めたものを清くないなどと言ってはならない」。清くないもの。外国人の象徴。 2025年1月26日 公現後第3主日礼拝 聖書;使徒言行録10章1~9節 ペテロ。イエスの吊前を使って奇跡を起こしていた。ペテロの中にペテロ自身がイエスを生きるようになっていく。そのペテロが次に直面すること。文化、常識の中で許されていなかったこと。異文化、異邦人との交流。そこへとペテロは導かれる。 2025年1月19日 公現後第2主日礼拝 聖書;マタイによる福音書2章1~12節 時間、空間。その座標軸の中に人はいる。8年間という時間。床という空間。物語は病人。病人は「人」の抽象化。それは私たち。これに続く物語。病気で亡くなったもの。「死」。人を支配するもの。使徒言行録は「支配」を私たちに気がつかせる。 2025年1月12日 公現後第1主日礼拝 聖書;使徒言行録9章32~35節 中風を患っているものとペテロは出会う。そこに中風のものは縛り付けられていた。 人は誰もが「時間」と「場所」に縛り付けらている。この中風の者に向かってペテロは言う。「イエス・キリストが癒してくださる」イエス・キリスト。どこにいるのか。 2025年1月5日 降誕節第2主日・新年礼拝 聖書;マタイによる福音書2章1~12節 私たちは何を見ているのか。星に導かれて旅をしてきた占星術の学者たち。ヘロデはイエスの居場所が分からず、ベツレヘムの赤子を殺す。占星術の学者。星を見ていた。ヘロデ。自分を見ていた。自分の地位を見ていた。 |