目 次

 

まえがき

    人生開眼  マタイによる福音書92731節  

    最初は感謝  マタイによる福音書124345

    最も重要な掟  マタイによる福音書223440

    幸 福  マタイによる福音書251430

    正気で生きる  マルコによる福音書5章I~20

    安心して苦しむ  ルカによる福音書15章8~10

    風は思いのままに吹く  ヨハネによる福音書3章I~9節

    「父よ」への救い  ヨハネによる福音書4126

    人生を計るもの -裸のラザロ-  ヨハネによる福音書111727

    柔 和  ガラテヤの信徒への手紙6章1~5節

    一名欠員、ただいま十一名  マタイによる福音書92731

    対談 輝くいのち

 

まえがき

 

 「全く単純です、わたしはただ誠実でありたいだけです。」 これは、キェルケゴール (1813~1855)がその「教会攻撃」の真意を知らせようと、1855年3月31日付の「祖国」紙に載せた論文「わたしは何を望んでいるのか?」の冒頭の言葉です。

 多くの宗教的著作を残した彼は、当時のデンマーク国教会を激しく批判して最後の一年を燃焼させたうえ、四十二歳で亡くなりました。この「教会攻撃」と呼ばれる批判活動は、その酷烈さのために評価は分かれ、ある人はこれを彼の著作家活動の画竜点晴と評価し、ある人は彼の精神疾患の結果と切り捨てます。これを正確に理解することは難しい問題ですが、わたしは、「全く単純です、わたしはただ誠実でありたいだけです。」という短い言葉に、この攻撃の性格が見えると考えています。これを書いたのは、攻撃を始めて三ヵ月半くらいが経った時でした。

 ところで「誠実」とは、彼の場合どういうことなのでしょう。次のような言葉が、この「わたしは何を望んでいるのか?」という論文の最後のところに出てきます。

 「わたしは誠実でありたいのです。もしこのことが人類の、あるいは時代の望むことであり、人類、あるいは時代が正直に、誠実に、率直に、堂々と、明白にキリスト教に反抗して、『キリスト教の権力に服することはできないし、したくもない』と神に言うのなら、しかし、よく注意してください、それが、正直に、誠実に、率直に、堂々と、明白になされている場合の話しなのですが、よろしいそのときには、それがどんなに奇妙な行動に見えても、わたしは賛成です、なぜなら、わたしは誠実でありたいからです。誠実さの在るところならどこにでも、わたしは一緒に行くことができます。そして、キリスト教に対する誠実な反抗は、キリスト教とは何であるのか、そのキリスト教に自分自身が如何に関わっているのか、を誠実に告白する時にのみ可能なのです。

こういう彼の考え方からすれば、「誠実」とは、キリスト教に自分自身が如何に関わっているのかを白状すること、と言えないでしょうか。つまり、新約聖書のキリスト教が語りかける対象として、自分自身を堅く据えて、そこで自己を凝視し続けて行く努力が「誠実」である、と言えないでしょうか。

 彼は『キリスト教の修練』の第3部6章冒頭で、キリスト教の真理は、自分自身を見るための曇りのない目であり、その目のもとで、自分自身から離れずに自分自身に立ち返るように読むべきものが、聖書であることを強調しています。ですから「誠実」とは、自分自身を聖書の集束的な対象にして、自己を吟味、凝視していることなのです。それは、何と言っても自分自身に関心を注ぐことであり、自分自身の魂を飽くことなく憂慮していることなのです。それはその結果、自分は真の信仰者とは言えないと認めるに至る程に、真実な憂慮なのです。いずれにしても、自分自身への憂慮が「誠実」なのです。そして、この「誠実」を問題にすることは、個人に決定的意味を見るキリスト教信仰にとって、相応しいことと言わねばなりません。

 彼は特に厳格なことを教会に求めて、教会攻撃を始めたのではないのです。新しい神学を構築して、新しいキリスト教を目指しだのでもないのです。自分自身を聖書の光の集束的な対象にして、自己を凝視し、そしてその結果、自己を真の信仰者とは言えないものと認容するに至る、そのように信仰者を導く「誠実」を教会に求める、それが彼の意図したところであったのです。だから彼は言ったのでしょう、「わたしは何を望んでいるのか? 全く単純です、わたしはただ誠実でありたいだけです。」

 「わたしはただ誠実でありたいだけです」、この彼の願いに、深く同意するものがわたしにはあります。そして、聖書を自分自身に関係させて自分のこととして読む、神学的正しさや、教会形成や、そういうことには関心なく、終始わたし個人の魂への憂慮において読む、そして、イエス・キリストに向かって自分を語る、そういうことを願ってきました。というよりは、そういうことしか出来ませんでした。わたしが今まで語ったり、書いたりしたものは皆そういうものです。ここに纏(まと)められたものも同じです。形は一応説教ですが、説教でもなければ、聖書研究でもなく、わたし自身の魂への憂慮における聖書の読みに過ぎません。別の角度から言えば、その聖書の箇所に出てくる登場人々物の中で、一番悪い人々の位置にわたし自身を重ね置いて読んだ、その読みに過ぎません。

 

 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであっていけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」  

(マタイによる福音書 9章1213節)

 

 主イエスはこう言われたのですから、病人、罪人の位置がわたしの位置にならざるを得ないわけです。

 

わたしの『灰色の断想』(ヨルダン社1975年)の中に、「恩寵」というのがあります。

 

 「イエスの十字架は二人の犯罪人の十字架と共に立ちました。その一人は、悔い改めて救いの言葉を死の間際に賜りました。もう一人は、罪を告白せずそのまま死にました。これは、悔い改める者は救われ、そうでない者は滅びることを示しているのでしょうか。いいえ、十字架の側では、悔い改めるも、悔い改めざるも同じであることを示しているのです。悔い改めるか否かで人間の運命が決まるかのように言う、宗教的脅しに注意しましょう。人間の悔い改めなど知れているのです。十字架が私の側に立っている、それですべてなのです」。

 

 この断想は、三十年ぐらい前、日本キリスト教団京都御幸町教会「週報」に載せたものですが、当初からある人々には「ほっとする」、「慰められる」と受けとめられたものの、多くの人々に「悔い改めを軽視している」、「福音を安価なものにしている」、「悔い改めは宗教的脅しではない」と厳しく批判されました。当然だと思います。わたしの勝手な考えの読み込みであり、誤った信仰と言われても仕方がないと思います。

 ただわたしはここで、十字架の両側の犯罪人のうち、わたし自身は一体どちらの犯罪人だろう、悔い改めた方か、それとも悔い改めなかった方か、それを考えて、罪を告白しないままに死んだ悪い方の犯罪人に自分を見ていました。また、その悔い改めのできないわたしの横にも、主の十字架が立っているという事実を見ていました。そして、悔い改めとは、わたしが悔い改めるというよりは、悔い改めを真面目にできないようなわたしの横にも主の十字架が立っているという事実、それに気づくことでないか、わたしのなし得る悔い改めとは、そのことではないか、そこまでではないのか、ということに思いを凝らしていました。もし自分を悔い改めている良い方の犯罪人に属していると思っているなら、その時は、いつの間にか自分の悔い改めに自信を持っている時、自分の悔い改めに安心している時、つまり、悔い改めがもはや悔い改めでなくなっている時ではないか、そう思っていました。「恩寵」という文章で言いたかったことは、そういうことです。わたしの魂への憂慮において、この考えは今も変わりません。

 

 本書は、これまでのわたしの本と同じように、わたしが自分自身の魂への憂慮において聖書を読んだ、その読みです。つまり、自分本位に曇った目のために自分自身が見えなくなっているわたしに、イエス・キリストが曇りのない目となって見せてくださったわたしの有様とその生き方、それをわたしの言葉で語ったものです。語る以上、確かに人に向かって語っているわけですが、実際は人に語るという意識はほとんどなく、イエス・キリストに向かって語ろうとしています。従って、これはもともと人に向かって語ったり、まして批判したり、主張したりするものではなく、そのようなことが出来るほどに健康ではない、病人であるわたしの、「聖書的独白」とでも言ったらよいようなものです。

 「独白」とは、相手もいないのに自分だけでものを言う「独り言」とは違います。相手はいるけれども相手と話をするのではなくて、自分の心の中に思っていることをただ相手に知らせるだけ、それが独白です。したがって、独白で一番大切なのは、相手の反応ではなくて、自分の心の中に誠実に何を思うかということです。「聖書的独白」では、その思いが聖書を一番身近な相談相手にして、まとめたものであるということです。本書はそういう「聖書的独白」なのです。

 

「聖書的独白」ということについて、一言つけ加えたいことがあります。

 

 イエスが宣教を始められたのは、およそ三十歳の時でした。その年までイエスは一体何をしておられたのでしょう。イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを、ご覧になっていたと思います。彼らがそのようになっているのは、ローマの支配下のもたらす政治的、経済的な困窮もさることながら、そういう彼らを慰めるはずの宗教が、ファリサイ派の人々や律法学者たち指導者の語るところによって、人の心に届かない、重い荷物を肩に乗せるだけのようなものになっていたからです。果たして神の言葉はそのようなものなのか、

 

「あなたの仰せを味わえば

わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。

あなたの命令から英知を得たわたしは

どのような偽りの道をも憎みます。

あなたの御言葉は、わたしの道の光

わたしの歩みを照らす灯。」     (詩編 119編103105節)

 

といったものではないのか、そういう疑問を抱いてイエスは若い日々を過ごしておられたと思います。

 月日をかけなくても分かるものは幾らでもあります。しかし、生きることに関する知恵は、月日をかけなければその人々のものになりません。信仰もまた、生きることに深く関わることとして、

そうなのです。

 

「涸れた谷に鹿が水を求めるように

神よ、わたしの魂はあなたを求める。

神に、命の神に、わたしの魂は渇く」     (詩編 42編2~3節)

 

「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。

命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」 (詩編 84編3節)

 

 「命の神」を慕う三十年の月日が、宣教に先立って必要だったのです。やがてイエスは、神の命の中に生き、動き、存在しているご自身に深く気づかれます。その時イエスは、それを人々、に知らせずにはおれなくなったのでしょう。

 

「命の神」に生かされて、イエスの人を見る目は、人間を民族や、性や、職業や、からだの状態や、財などから見るのではなくて、そのような一切の外的なものにとらわれずに、あくまでも命として、一人の人間を見る単純さを帯びます。「わたしか来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたイエスの目には、その単純さが輝いています。たった一回の命を今ここで生きている一人ひとりを、欠点も、失敗も、悲しさも、愚かさもそのままに、その人をその人として見る単純さが、イエスの目にはあります。全ての人を命において見るそういう単純さに、「命の神」に生かされているイエスの面目があるのです。そして、まさにそこにおいてユダヤ人イエスは、ユダヤ民族を越えられたのでした。

 ヘブライ人への手紙7章2~3節に、メルキゼデクというアブラハムの時代にサレムの王でもあった神の祭司が出てきます。彼は、後代イスラエルの理想的王者の典型とされ、ここではイエス・キリストを示す者として、次のように語られています。

 

 メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。

 

 つまり、イエス・キリストには系図がないというのです。マタイによる福音書の冒頭には、確かにイエス・キリストの系図はありますが、それはユダヤ人としてのものであって、民族を越えた全ての人の救い主としてのものではありません。「命の神」を「父」と慕われたイエス・キリストには系図はないのです。「系図」、即ち、人をあるがままに、その人本人として単純に見ることを妨げるようなもの、イエスにはそのようなものは何も無いのです。そして、このイエスの単純な命を見る目に対しては、わたしは自分の命を憂慮して「誠実」であるより他なく、また、このイエスを語るには「聖書的独白」によるより他ないのです。

 

 「聖書的独白」である本書の願いとするところは、わたし一人への神の愛を誰にも手を触れさせずに、そっと大切に感謝していたいということ、そして、その愛は全ての人それぞれに等しく注がれていることを証ししたいということです。

 

 

 六年前引退に際し、ヨルダン社の古家克務氏と約束をしたものが、わたしの不手際で他社から出版されてしまいました。約束を果たすために、その後機会を与えられて各地で話したものの中から選んだ十二編が、本書です。この間古家氏は独立されましたので、その設立されたダビデ社よりこれを出していただくことにしました。改めて同氏にお詫びし、この機会を待っていただいたことに感謝したいと思います。

 

 ①から⑩は、礼拝で話したものから選びました。教会名、日時などいちいち書きませんでしたが、聖書の順に並べてあります。一つ(④幸福)を除き全て通常の礼拝です。

 ⑪は、日本バプテスト同盟関西部会信徒研修会、⑫は、NHK教育テレビ「こころの時代」で話したものです。

 

 在職中の四十年間、二つの教会に閉じこもっていた私は、全く考えもしなかった多くの方々と、この六年間望外の出会いを経験し、励まされ生かされてきました。会うべき人々に会い尽くさない限り、人生は終わらないものなのかという思いを深くしています。会わせてくださっているイエス・キリストの父なる神に感謝しつつ、それらの皆さんに本書を捧げたいと思います。

          (聖書は、日本聖書協会新共同訳を用いています。)

                                         著 者

   1999・8・31

 

追  記

ダビデ社は、本書がより広い読者層にも届くよう配慮して、努力してくださいました。そして、近代文芸社がこれに応えてくださいました。出版事情の極めて厳しい時代と言われる今日、理解を示してくださった近代文芸社社長・福沢英敏氏のご厚意に感謝致します。担当の同社河西恵子氏には大変お世話になりました。

 なお、畏友北沢康吉氏はこのことについて近代文芸社に仲介の労を取り、ご多忙の中協力してくださいました。心より御礼申し上げます。同氏は、二十六年間の高校教師の生活後、定年をおよそ十年残して退職、私財を投じて私塾「のぞみ学園」(長野県東伊那)をつくり、登校拒否の子供たちと合宿しながら、ロージャーズ流カウンセリングの視点に基づいて、子供たちとその父兄に、ご夫婦で献身的な支援活動を全国的に展開して、既に十年になられる方です。

 

1999・10・23