目 次

まえがき                                     藤木正三

第一部 命はどこででも輝く                         藤木正三

 ・ 命なりけり

 ・ 納 得

 ・ 父 よ

 ・ 急がずに愛

 ・ 命はどこででも輝く

 

第二部 心の健康と宗教                          工藤信夫

1 信仰について

2 心の健康と宗教について

3 生きる姿勢について

4 人間関係について

 

あとがき                                    工藤信夫

 

工藤信夫氏のプロフィール

 

まえがき

 

 本書の第一部「命はとこででも輝く」は、私の『灰色の断想』、『神の風景』に続く断想集です。第2部は、あとがきに記されていますように、工藤信夫医師(淀川キリスト教病院医長)が、『灰色の断想』と『神の風景』の中からいくつかを取り上げて、精神科医としての臨床経験に基づく感想を述べてくださったものです。

 

 私は京都御幸町教会で実際に語った説教の要旨を、できるだけキリスト教用語や表現を避けて約240字にまとめ、それを「断想にとして教会週報に毎週連載して参りました。それは1970年4月に始まり、途中3年半ばかり休みましたが、今日に至っています。1975年3月までの分は編まれて『灰色の断想』となり、それ以後1985年3月までの分は『神の風景』となりました。今回更にそれ以後の分を編んで第一部「命はとこででも輝く」としました。

 

 

 宗教は人間の生き方の究極に関わるものとして、人間の歴史と共に古くから存在しています。しかし、素朴な日常性に結び付き易いものでもあり、自覚的な認識や主体的な反省のないままに正当さを欠く扱いを受けることも、また人間の歴史と共に古いのです。

 信じる者は、あるいは熱狂的に、あるいは利己的に、そして習慣的に信じ、信じない者は、無関心と、懐疑と、軽蔑とをもってあしらい勝ちです。個人の魂の救を求めて信じる者もあれば、社会の変革を期待して信じる者もいます。また、ある者は、狭く特定の宗教の教理や信条や戒律を信奉するところに、宗教の姿を見出し、ある者は、広く神の存在を信じて世界や自己について思いをめぐらすところに、それを見出しています。大衆的な呪術性の強い新興宗教に走る人が少なくない一方、深遠な教理と整った教団組織をもった既製宗教は、十分に現代人の苦悩に届かず衰退しています。宗教とは一体何なのでしょう。

 

 宗教現象は多様であり、規定することは困難ですけれども、究極的なものへの関心がそれらに共通していることは認め得るでしょう。従って、「人間の歴史の中で『宗教』と呼ばれてきた、人間の追求また営みの、その根本の意図は、人間が、自らの存在のその究極を追求し、その究極の次元において人間としての究極の生きかたを実現しようとするところにあったのだ、ということである。つまりひとがそれぞれに人間としての究極の人生態度を実現しようとすることこそ、本来の宗教的追求にほかならないのである。」(谷口隆之助『聖書の人生論』 1979年川島書房、191~192頁)といってよいでしょう。宗教とは、究極的人生態度の実現という課題に応えようとするものです。そしてその答えは、聖書の場合、「心を入れ替えて子供のように」生きることのように、私には思えます。

 

 マタイによる福音書18章1節~5節に、イエスが子供を弟子たちの中に立たせて語られた言葉があります。(聖書の引用は新共同訳による)

 

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。1節)

 

 私達は皆いつも優越感を抱ける何かを持とうと密かにあくせくしているものです。この点では劣るけれども、この点では敗けない! 私達はそう言えるものが欲しいものです。勝るとは言えないまでも、まあそこそこ恥かしくないと思えるものを見出しては、心のバランスをとっているものです。せめてもそういうものがないと私達は卑屈になり、劣等感にとらわれ、萎縮してゆきます。人と比較して順位争いをする、このような思いから解放されて、常に自由であるという人はいないでしょう。そして、そういう思いを持つこと自体は決して悪いことではありません。「いちばんになりたい」、そういう競争心があるから人は努力するのであり、社会も進歩するのであり、文化も向上するのです。私達の生きる社会は烈しい競争社会です。「だれがいちばん偉いか」、これで動いている社会です。ですから弟子達がこういう質問をしたからといって、彼らが自己中心のエゴイストであると非難するのは当たりません。むしろ彼らは大変正直に生きているのであり、率直に質問しているといってよいのです。

 

 では弟子達の質問には問題はないのかといえば、あります。それは、この質問がっいったいだれが天の国で」で始まっていることです。つまり、この現実社会では当然のことである「だれがいちばん偉いか」という問題意識を、そのまま天の国でも通用することとして質問していることです。弟子達は、天の国を現実社会と同じレベルで考えています。それが、この弟子達の質問の最大の問題点であり、それに気付かせるためにイエスが取り上げられたのが「子供」でありました。

 

そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、(2節)

 

 弟子達はここでまさか「子供」が登場するとは思わなかったでしょう。彼らはイエスが十字架につかれる直前においても「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(マルコによる福音書10章37節)と、イエスにお願いしたくらいにいちばんになることで頭が一杯であった人々ですから、「子供」のことなど全く眼中になかったと思います。その彼らの真中にイエスは「子供」を立たせられたのです。

 

言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。(3節)

 

 イエスはここで決して彼らの「天の国でいちばん偉い」という願いを斥けてはおられません。そういう願いを持つことはよいのです。ただ天の国では、いちばんになりたいと思うなら、現実社会のいちばんと同じレベルで考えてはいけない、心を入れ替えていちばんを考えなければならない、と言っておられるのです。そして、その心の入れ替えとは何かを示すために、彼らの真中に「子供」を立たせられたのです。「子供」は、心の入れ替えとの関係で弟子達の真中に立たせられたのです。

 

 「子供のように」、これを子供をお手本にという幼児礼賛と解するのも、あながち否定はできませんけれども、しかし、ここにはそういう説明だけでは極めて不十分といわねばならないものが秘められています。といいますのは、イエスはここで、「子供」を心の入れ替えとの関係で立たせられてしるからです。イエスはここで単に、「子供のようにならなければ」と言われたのではなくて、「心を入れ替えて子供のようにならなければ」と言っておられるのです。謙遜とか、無邪気とか、素直とか、そういう心の持ちようを変えることではなくて、もっと根本的に心を入れ替えること、それがここで問題とされているのです。そして、「子供」はその心の入れ替えを示すために登場したのであって、心の持ちようを変える手本として登場しているのではないのです。天の国でのいちばんを考える場合に、大切なことは心の入れ替えである! イエスが「子供」を立たせて訴えようとされたことは、これです。

 

 ところで、偉い偉くないを決める基準は、一般的に言って何でしょうか。私達は考えるでしょう、立派な肩書きを持っている人は偉い、名誉を持っている人は偉い、高い地位を持っている人は偉い、権力を持っている人は偉い、能力を持っている人は偉い、お金を持っている人も偉い、要するに何かを持っている人は何となく偉いと私達は考えるのではないでしょうか。また考えるでしょう、大きな仕事をする人は偉い、人には出来ないようなことをする人は偉い、地味なことを忍耐強くする人は偉い、人を助けたり社会のお役に立つことをする人は偉い、要するに何かをする人は何となく偉いと私達は考えるのではないでしょうか。つまり、偉い人というのは、何かを持っているか、何かをする人なのです。弟子達が「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った時も、他の弟子よりも熱心な信仰を持ち、大きな活動をすれば、いちばん偉いとイエスに評価してもらえると思っていたことでしょう。何かを持つ、そして何かをする、この持つするが、現実の社会において人を評価する時の基準です。しかし、天の国ではそういう規準は通用しないのです。そういう規準をそのまま持ち込んではいけないのです。そのことを気付かせようとして、イエスはここで「心を入れ替えて」と言われたのであり、そのことを具体的にわかり易く示すために「子供」が彼らの真中に立たせられたのです。なぜなら「子供」は誇るべき何ものも持っていません。また誇るべき何事をもすることは出来ないからです。持つするという点では「子供」は無価値、いちばん偉くないものだからです。「子供」は、単にそこにあるだけのものです。そこに存在するだけのものです。そして、この単純にあるだけ、存在するだけの「子供」を真中に立たせて「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われたのです。ですから、イエスの言わんとされたことは明らかです。天の国でいちばんを願うなら、心を入れ替えて、根本的に価値の基準を替えて、現実社会における規準であるもつするから離れて、あるに規準を替えねばならない、ということです。もつするから、あるに価値の基準を替える、これがここでイエスが言われる「心の入れ替え」の内容でしょう。だからこそイエスは、もつとかするとかでは全く駄目で、単にあるだけに過ぎない「子供」を立たせて「心を入れ替えて子供のようにならなければ」と言われたのでしょう。「子供」はあるという以外に誇るべきものを何も持たないその低さの故に、あるという規準では最高のものとされるのです。

 

 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国ではいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。(4~5節)

 

 持つとかするとかを基準にいちばん偉いを競っている現実社会の中で、もはやすっかり見失われてしまったもう一つの世界、すなわち、あるということが基準になる単純な世界に目覚めることこそ、イエスを受け入れ、イエスを信じる信仰なのです。私達が普通現実といってしる社会は、持つするで決まる社会です。万事は持つするをめぐって打算的、功利的、人為的に構築され、その中でいかにいちばんになるかで、私達は狂奔して疲れています。そこではあるに注意すること、存在に配慮することが完全になくなっています。そして、生かされて今あるという、いのちに対する根源的な感覚が麻痺しています。イエスが「心を入れ替えて子供のようにならなければ」と言われたのは、まさにこの点をついているのです。すなわち、与えられ、生かされ、そしてやがて取り去られてゆくいのちそのもの、あることそのものに気を付けて生きるように、とイエスのこの言葉は呼びかけているのです。持つことを離れ、することを離れ、あるという事実、いのちそのもの生のいのちに目覚めて生きる、それが心を入れ替えて「子供」のようにと言われる生き方であり、イエスを信じるものの生き方なのです。

 

 ところで、感覚が麻痺してわからなくなっているある(、、)という事実に身を委ね、生のいのちに目覚めて生きるとは、どういうことなのでしょう。Brother Sun、 Sister Moon、そういう題のアシジの聖フランシスコの伝記を映画化したものがありました。それを見た時、こんな世界を生きている人がいるのか、と自分の心の粗雑さを恥じ入らしめられるような体験をしたのを覚えています。彼は自分の存在を、自然の中に包まれたその小さな一部と捉え、生きとし生けるものと交わり合い、生き合っているものと理解しています。そういう彼の、透徹した被造物としての信仰にうたれたのを覚えています。彼は小鳥と語ります。狼をBrother Wolfと呼びます。彼にとって、自然も、動物も、人間も、同じく神の手によって造られ、あらしめられた存在同上なのです。共通のいのちをわかち合っている仲間なのです。人間だけがただ一人突出し、自然や動物を支配して、思いのままにすることができる、そういうものとしては人間は存在しないのです。人間はいのちを与えられ、あらしめられて存在しているという意味では、全てのあるものと少しも変わりなく、共通の存在を同じ重さで互いに生き合っているのです。Brother Sun, Sister Moon, Brother Wolf、そう呼びかけたアシジの聖フランシスコの存在に対する敬虔な感受性、その感受性によって捉えられた万物が生き合っている世界、その中で小さい存在として生きる、生のいのちに覚めて生きるとは、そういうことではないでしょうか。

 

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるのであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたち知っています。被造物だけでなく、「霊」の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の償われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(ローマの信徒への手紙8章18~23節)

 

 ここを見れば、イエス・キリストが救い給う世界は全被造物なのです。人間だけが救われるのではないのです。自惚れてはなりません。全ての存在が被造物として共に呻き、共に産みの苦しみを味わい、そして共に救われるのです。聖書はそういう風に世界を見ています。人間のみが突出し、動物も、自然も、人間が持つ対象となったり、または人間が働きかけて、利用して、何かをする材料にされたりするだけの、そんな世界ではないのです。人間も、自然も、動物もありとしある全てのものが、造られてあるものとしての共通の存在を分かち合い、生き合っている、その中に人間も、小さな位置を許されているに過ぎないのです。聖書はそう見ています。

 

 そして、そういう世界は童話の世界です。童話の世界では、人間と動物が語り合い、自然が人間に語りかけ、自然と自然が囁き合っています。皆生き合っています。交わり合っています。童話の世界こそイエスが「心を入れ替えて子供のように」と招かれた世界ではないか、童話の世界こそ、もつこと、することから離れた、単純にあるの世界、存在の世界、生のいのちの世界ではないか、そのように思えます。童話の世界、それは全てのありとしあるものが、根源的に生かして下さる方の手のうちに「生き、動き、存在し」(使徒言行録17章28節)合っている交わりの世界です。こういう単純な世界を私達は忘れてしまいました。そして持つことに狂奔し、することにうつつをぬかし、そこで「いったいだれがいちばん偉いのでしょうか」と競い合っています。あるべき本来の世界から離れてしまった、いわば故郷を喪失したような私達に、もっと単純に生きなさい! 今あることに感謝し、生かされてあることに感動して、今日一日を生きなさい!(マタイによる福音書6章34節)そう呼びかけてイエスは「心を入れ替えて子供のように」と言われたのです。

 

 「心を入れ替えて子供のように」、これは生のいのちへの招きです。ここに聖書の語る究極的人生態度があります。そしてこの招きに応えようとする生のいのちへの祈りが、第一部「命はどこででも輝く」の基調です。

 

 『灰色の断想』、『神の風景』と同様、第1部の冒頭にも「人生の色」と題する断想を載せました。それは「断想」を書き始めてから二十年、信じ、考え、生活して来た基調が、変わりなくこれであったからですが、振り返ってみれば、結局それは、生のいのちへの祈りであったと思っています。

 

 「断想」は毎週の生活の中から聖書に導びかれて自然に生まれてきたものですから、元々なんの纏まりもありませんけれども、全体から以上の祈りを汲みとっていただければ幸いです。そして本書第2部は、この祈りをひとりの医師が汲みとって、共に祈ってくださったものです。その意味で、本書は或る牧師と医師が共にする、生のいのちへの祈りとも言えましょうか。

 

 

  「断想」を書き出した動機やこれに寵めている思いなどについては『灰色の断想』と『神の風景』のそれぞれのあとがきに詳しく述べましたが、なお、一言その立場について加えれば、私はイェス・キリストの福音を、排他的に唯一絶対のものとして告白しようという立場をとっていません。先に述べましたように、宗教とは究極的人生態度の実現を願う人間のいとなみであり、これはキリスト教だけのものでは勿論ないからです。どの宗教にも究極的人生態度の実現を願う祈りはあると思っています。世の中には怪しげな宗教もたしかにあります。それらを批判することは難しいことではありません。しかし、批判して斥けるよりも、それらも共に究極的人生態度を求めている祈りであることを認める方が、究極を志向するものに相応しいと思います。特定宗教だけにそういう祈りがあると自負するなら、それは究極的なものを求めるものとしての自己を否定することになりましょう。そういう意味で福音を排他的に告白するのではなくて、福音に具現されている宗教そのものの真理性に生きようとすることが、「断想」の立場です。

 

 いずれにいたしましても「断想」は、私が自分を確認するために書いた自画像であり、また私か自分が生きるために書いた人生論であり、また私が自分を生かしてくださっている神を告白するために書いた信仰告白でもあります。願いは、私をこのように自覚せしめ、このように生かしめて下さっている神の恵みを語りたいということに尽きます。

 

 そして、この願いにおいて工藤医師との共著を思い付いたのは、1990年10月頃でした。既に7年間程親しくして頂いて薄々とは感じていたのですが、私と共通の問題意識を信仰に対して抱いておられることに気付いたのです。工藤医師は『信仰による人間疎外』(いのちのことば社、1989年)という本を出しておられますが、そこで本来神と人、人と人とを結びつけるはずの宗教が、却って人間を疎外することを問題としておられます。私も予てからそのことを考えていました。何故こういうことになるのか、それは私の考えるところでは、宗教の教理が、そのまま受け取られるべきものとして信仰を求める魂を納得せしめることのないままに伝達されているからでしょう。信仰の名において理性が沈黙せしめられている無理が、信仰にはあるからでしょう。たしかに啓示としての福音の真理に対しては、人間の理性は関わることは出来ません。そこには絶対の断絶があります。だからただ信じるより他ないのです。しかし、信仰は果たして理性の沈黙におけることなのでしょうか。聖書を虚心に読めば、驚いて信じ、崇めて信じ、権威に打たれて信じた数々の例は、どれを見ても信仰が、理性の沈黙というよりは、深く了解せしめられた理性の納得であることを示しています。つまり、啓示に対して起こる信仰は、理性によって啓示を対象化して把握している理解ではもちろんありませんが、といって理性的働きを止めてそれに賭けているのでもなく、啓示に出会ってハッとその真理性に気付いた納得なのです。啓示は人間の理性を否定しながら、それを生かし用いて、合点、了解、納得せしめています。そこでは理性は決して沈黙せず、否定されず、納得しています。啓示には、人間が自由に主体的に納得し得るような合理性があるのです。啓示は、そのように人間を納得に導くものとして、超理性的ではありますが、決して非理性的ではないのです。超理性的ではあるが非理性的ではない啓示の真理は、無理なく納得されるものです。信仰とは、この納得のことにほかなりません。とするならば、迷いに満ちたひとりびとりが無理をしないで納得させられるものこそ宗教的真理であり、納得するまでは疑い続け、迷い続けることこそ宗教的態度であり、その点において迷いに正直であることこそ宗教的人格であり、そして、無理をしないで吐く本音がそのまま受け容れられることこそ宗教的救いである、というべきです。要するに、いかなる意味においても、そして、いささかでも無理のある信仰は、信仰ではないということです。正統性よりも、普遍性よりも、客観性よりも、何よりも信じる本人その人が無理なく納得すること、それが決定的に大切なのが信仰である、ということです(この点については『灰色の断想』のあとがきの中の「私一人のための神」の項で詳しく述べています。本書138~141頁参照)。そして、ここに工藤医師と私とが共有している問題意識があるように思います。

 

 工藤医師は、「僕はみことば主義者です」と言われます。また、お会いした時には、別れ際に必ず「祈って下さい」と、共に祈りの一時を持つことを求める方でもあります。キリスト者として敬虔に、精神科医として冷徹に、工藤医師の人を見る視座はそこにありましょう。その温かさも、そこからのものです。私の貧しい「断想」に、豊富な臨床経験に基づく感想を懇切に書いて下さったことに対して、その多忙な医療活動と講演活動を承知しているだけに、感謝の言葉もありません。

 

1991年12月                   

藤木正三

 

 

工藤信夫氏のプロフィール

1945年、秋田県に生まれる。弘前大学、大阪大学において精神医学を学ぶ。1980~81年、南メソジスト大学、およびベイラー大学医学部に留学。1977年より淀川キリスト教病院に勤務。同病院精神科医長を経て、1992年より日本ルーテル神学大学福祉学科教授。

著書;「人を知り人を生かす」「魂のカルテ」「よりよい人間関係をめざして」「こころの風景」「信仰による人間疎外」「こころの光をもとめて」「牧会事例研究」1~4、「援助の心理学」「女性の四季」「心で見る世界」「医療の心」「援助者とカウンセリング」「ほんとうの生き方を求めて」

 

 

編者注;

l  この「福音はとどいていますか」の各ページは藤木正三・工藤信夫両氏の共著「福音はとどいていますか」をネット上で原著に近い形で再現しようとしたものです。掲載は藤木正三氏のご遺族、工藤信夫氏の了解を得ています。

l  原本の構成をできる限り維持しましたが、ネットへの掲載上、縦書きを横書きに、漢数字をアラビア数字に、目次のページ数をダイナミックリンクに、などの変更を行っています。

l  入力ミス、ご感想などをお教えいただければ感謝します。ご連絡は support@ekyoukai.org  までメールでお願いします。