藤木正三牧師を語る会

 

日時;2017年11月14日 午後3時から6時ころまで

場所;復活之キリスト穂高教会

出席者;穂高教会の毛見牧師ご夫妻、三鷹の会から5名、名古屋ベテルの会や近隣から6名

出席者中、本多は1970年から74年、中島氏は72年から76年、毛見牧師は76年から80年まで、藤木牧師が牧会していた御幸町教会の寮に住み、藤木牧師の薫陶を受けた。

第1部      礼拝

  黙祷

  讃美歌58番(第2編、藤木牧師の愛唱聖歌)

  聖書 ヨハネによる福音書21章18編(藤木牧師が牧師を志向する転機となった)

はっきり言っておく。あなたは、若いときには、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。

  説教

  祝祷

礼拝の録音はここをクリック

      

第2部     語る会

礼拝後教会の談話室に一同は移り、毛見牧師の司会で語る会を始めた。参加者一人一人の藤木牧師との関係に続いて本多、中島氏、毛見牧師が御幸町時代の藤木牧師のエピソードなど語り、恵まれた良い時を過ごした。

主な話題は以下の通り。

l  教会では寮生は毎週日曜の礼拝と水曜の祈祷会に出席するのが務めだった。藤木牧師(以下、牧師という)の礼拝説教は45分の長さで、完全原稿を用意してそれをとつとつと読むだけだった。その読み方も発音が明瞭でないので聞き取りにくかった。祈祷会でも真面目に、誠実に、地道に聖書の解き明かしをしていた。

l  常に完璧を目指していて自分のミスを許せなかった。他方批判されることに弱かった。自分が作った役員会資料にミスを発見して狼狽えるほどだった。説教を作るのに血がにじむ努力をしていた。中高科のキャンプで丹後半島に行っても、皆がリラックスしている一方で、一人で真剣に説教原稿を作っていた。説教原稿は説教する日の何日も前に完璧に用意されていたことだろう。

l  牧師の説教の内容は年代と共に変わり、1970年代はかなり小難しかったが、引退されてからはかなり平明になった。

l  牧師はきちんとし過ぎる性格だった。例えば、布巾を干すときに、その端と端をキチンと合わせる様に要求した。新幹線で出かける時、一電車前にホームに行って乗るべき電車を待っていた。この様な厳しさを周囲に要求した。(牧師は宮大工の跡取りとして育てられた。宮大工の建築は木組みが重要で、木組みは組み合わせる木材を正確に加工しないと成り立たない。牧師はこうした、図面通りに正確にきちんと加工することの美学を幼少時に教えられたことだろう。1つの主張を240字内に表現し切るという「断想」のスタイルはこの宮大工の美意識の所産ではないか?)

l  教区の会議などにはほとんど出席しなかった。代わりに神学生や教育主事を出席させたこともあった。

l  寮生は礼拝と祈祷会以外は牧師と接触することは余りなかったが、教会の廊下に伝言用黒板があり、そこに牧師からの呼び出しが書いてあると寮生は緊張した。

l  教会の敷地内に小さな離れの建物(付属舎と呼ばれていた)があり、そこに経済的に恵まれない母子が無料で住み教会の掃除をしていたが、付属舎に住む家族がいない時期には、牧師が一人で教会内の掃除をしていた。雑用も牧師の仕事で大切だと言っていた。寮生は大変だなと思ってそれを見ているだけだった。手伝いましょうかと申し出ても、「結構です」と言われたから。

l  礼拝堂には集会室が隣接してあり、集会室の天井は礼拝堂と同じくらいの高さがあった。集会室の礼拝堂と反対側には1階に小部屋が3室並び、その2階部分にある3室に3人の学生が住み、これを寮と称していた。寮の3室の集会室側は狭い廊下になっており、この廊下から集会室を見下ろせた。ある時牧師から廊下が散らかっていると注意された寮生が廊下のごみを集会室に掃き落としたところ、牧師はその塵をそれと気付かずもくもくと掃除した。

l  牧師は藤木工務店の跡取りとして大切に育てられ、5歳になるまで自分の屋敷から出たことがなかった。屋敷はそれほど広かった。牧師は言わば「金持ちのボンボン」として育てられた。正に「自分で帯を締めて、行きたいところへ行って」やりたい事をしていた。庶民離れしたところがあったが、その分純粋だった。

l  牧師の実家には十六歌仙の巻物の小野小町の部分があった。ご自分(実家)には財産もあったし、名誉(社長の地位)もあったが、それを捨てて牧師になったと言える。自分の家が豊かな事に対する罪悪感、豊かな家庭で育ったコンプレックスもあった。イエスに、持っている財産を全て処分して自分に従ってきなさいと言われた金持ちの青年の説教では、牧師は「捨て切れない自分というものがある」と青年に同情的だった。

l  しかし自分の生得の性格(神経が繊細で感受性が強かった)のせいで人と接していてもどれだけ自分が相手を傷付けているかとか、正義を語る人と接していてもその人の背後にある醜いものが見えてしまったのではないか。それもあって、牧師は結局父親の事業を継承できなかったが彼はこれを挫折として受止めた。それは牧師の著述の様々なところに現れている。

l  貧乏な育ち方をしたら、自分がどう食べて行くかをまず第一に考えるが、牧師は藤木工務店の株主で金持ちだったのでその様な発想は無かっただろう。教会に辞表を出しても家族を養えるだろうくらいの計算はしていたのではないか。

l  牧師は和子夫人と見合い結婚した。交際中に、列車に乗って帰る和子夫人に向かって牧師は「サタンよ立ち去れ」と言ったことがある。教会の若い婦人たちがそれを聞きつけ、牧師に「そんな事言うなんてひどい」と言ったら牧師は苦笑していた。これは、牧師が和子夫人に引き付けられて思わず言ってしまった言葉だろう。牧師は当時生涯独身だったキェルケゴールに傾倒していた。

l  訴訟のため京都に来た水俣病患者に教会の部屋を空けて宿泊を提供したことがある。社会運動に対する興味は失わなかった。また、「性を語る」という題で教会の全体修養会(?)を開いたことがある。「こんなことをやっている教会はこれまで無いんだよ」と牧師は意欲的だった。牧師は思索と説教だけの人ではなかった。

l  牧師には奇矯な行動とか強く感動するエピソードが無い。押しつけがましいところが無く、常に紳士的な誠実な態度で人と接しておられた。これが牧師の特徴と言えるだろう。

l  牧師はカウンセラーとしても優れ、悩む若者を導いた。牧師、思想家、詩人としてのイメージがある。思想家として優れていたが、人間的には欠点もいろいろあった。しかし家庭訪問や病床訪問などもよくなさり、牧師として優れた方でもあった。

l  御幸町教会に赴任して1年後に、説教が難しいので辞めてもらおうという話がでた。しかし、牧師の説教の価値が解った役員が周囲を説得し、長い目で見ようということになった。説教を解りやすくするために「四季の会」ができ、そこを通して牧師の説教の素晴らしさが理解されていった。

l  牧師に信徒が相談に行くと必ず心を向けて対応し、突き放すことがなかった。牧師の説教を心の頼りにする女性信徒も何人かいた。

l  寮生とのクリスマスイベントとして食事を共にした後森山良子のコンサートや同志社女子大のクリスマスページェントを聞きに行ったことがあった。牧師は素うどんが好きだった。ラーメン屋やパチンコ屋に一人で入れなかったので寮生を誘ったことがあった。

l  牧師は旧制浪速高等学校(現大阪大学教養部)に入学後、貧者に尽すなどの社会主義的活動に挺身した。しかしそれに挫折し、結局関西学院大学神学科に進んだ。

l  1960,70年代は学生運動が盛んで、牧師も学生の活動家に糾弾されたことが何度かあったが、牧師は「そういうことは私の射程距離にはない。(自分の関心は学生たちの言っているものとは違う)」といって撥ねつけた。